にゃごにゃ小学校

本家(HP)作製のネタ、あるいは記事にするには寸足らずな話を日記兼用でアップします。

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注:映画、小説ともネタバレを多数含みます












 最近、知人の若い女性がこの映画を観て、とことん落ち込んだ、という話を聞きました。やっぱり人を選びますよね。とにかく、あれをリアリティで捉えるととても観てられないと思います。リアルなところもあるけどリアリティのある話ではない。そう受け流せないと、やっぱりきついですよ。

 さて、小説の話、思うのですが、映画にはない校長のたわけた行為、あのとき校長を絞め殺しておけば、同じひと一人殺すのでも、まだずっとましな人生を送れたに違いないのでは。いろいろと、いかにも校長が陥れようとしたと判断される不自然な状況証拠も出てくるだろうし、うら若いまじめな女性教師が、信頼し尊敬していた校長にそんなめにあわされたとなれば、情状酌量の余地は十分。少なくとも、ヤクをやりながらヒモと同棲していた売春婦がそのヒモを殺っちゃう(あ、なんか表現がきつい)なんてのよりは、まともだなーと世間様も思ってくれるわけです。
 それで面白い小説になるかどうかはもちろん別の話ですけどね。

 それにしても、この校長とその絡みの話は、どうもキャラが立ってないというか、うそっぽいというか、よくないです。あとで多少後ろめたさを感じる様子になるのはいいとして、修学旅行の不祥事でこれ幸いと松子を追い出す。それから、ずっとあとになって龍に殺されますが、それにまつわる若い孫娘の言動や、そこから映し出される松子以後の校長の生き方もちぐはぐかつ不明瞭。このあたり、せっかく小説なんだから、映画ではできないまとめかたもできたでしょうに。
 だいたい、校長が親代りに孫娘を育てるにあたり、かつての松子の年代に育ってくるにしたがい、自分の過去の悪業をどう悔いていたか、いなかったのか、殺される運命を受け入れたのかどうかなども一切不明。トータル的に、ないほうがすっきりする話で、なんか雑音のような気がします。


 映画ならではの演出の一つは、やはり片平なぎさのサスペンス劇場でしょうが、これはひじょうによく効いています。このあたりを絡めることで、リアリティ追求の映画じゃないよ、というサインを観客は受け取るべきでは、と思います。


 小説を読んでいると、松子が可哀想だったり自分の性格と重なったり、あるいは愛すべき性格だと感じたりしますが、現実的にはあり得ないことで、小説でありながら、松子の行動や心理描写はきれいごとすぎると思います。
 彼女の言動からすれば、心の中はもっと毒があり、憎悪に満ちていて、怨み、妬み、嫉み、そして怒りに満ちているはず。だからこそ運命もどんどん悪くなって行くわけで、もし小説の通りの心の動きであるなら、ほんとにけっこう素直でかわいい性格で、回りの人もある程度その部分を愛している。なのに運命が意地悪く彼女をひきずり落としていく、という非常にアンバランスなことになります。そのアンバランスさがあの微妙な物語を魅力的なものにしている点は認めますし、私もそれが好きなのですが、しかし他の多くの名作のように、主人公の性格や境遇、運命について、真剣に語るというのは無理があるように思います。
 そのあたり、中島監督は見て取った上で映画化を決めたに違いない、と感じているのは私だけ?でも、そう考えると、あの映画の脚色は納得できますよ。


つづく、かな?


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