にゃごにゃ小学校

本家(HP)作製のネタ、あるいは記事にするには寸足らずな話を日記兼用でアップします。

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 是非は別にして、死刑を容認する、しないについて、一つの考え方として宗教の観点から紹介します。

 いろいろな宗教・宗派がある中で、伝統的な宗教では、死刑を容認するものが少なくありません。一つには、旧約聖書に見られるような、同害刑法の原則があります。いわゆる、目には目を、歯には歯をもって償う、というあれです。ただし、これは被害者側の復讐ではなく、加害者側の償いであることに注意すべきです。


 大半の、特に一神教の宗教では、人は神に生かされていると考えられています。このため、命は自分で自由にしていいものではなく、自殺は神を否定することになります。自殺すると地獄に落ちる、というのはそうした理由です。
 同様に、人の命を奪うことは大変な罪で、過失はともかく、殺意をもって人を殺した者は、殺されなければならない、というルールが適用されます。

 さて、単にそうした収支の問題だけではない重要な事項があります。それは、死刑になることにより、その重大な罪を、自分の身を持って償うことができるという点です。つまり、人を殺しながら死刑にならないということは、死後、大きな罪を背負ったままあの世に旅立つことになり、その先ではその罪ゆえに恐ろしい来世が待ち受けている、というのです。
 一方、死刑になって償いをした場合、すべてとはいかないまでも、自分にとって大切な命で清算したわけですから、その罪は大幅に減ぜられます。また、大半の死刑囚は、死を前にすると、悔い改め、神を求めるそうです。そうした信仰の気持ちが、神の救いを呼び込むということです。

 つまり、死刑は、犯罪者の「魂の救い」のために必要だ、という考え方です。
 確かに、宗教抜きに考えても、理不尽に生きる権利を奪われた被害者の立場からすれば、加害者が命を持って償うことは、当然期待される贖罪と言えます。

 もちろん、一部のカルト集団がやるような処刑がゆるされるわけがありません。あれは裁く側ではなく、裁かれるべき殺人者の行為です。

 ちなみに、現在のキリスト教では、輪廻転生を認めていないため、結果的に死んだらおしまい、この人生がすべて、という発想になり、多くの国で死刑廃止となっています。同時に、人生観が極めて唯物的、享楽的になっているのも風潮です。
 ただし、御存じの方も多いと思いますが、イエス・キリスト自身は、輪廻転生について述べられています。有名な「死海文書」などがそうですね。
 一部の研究者は、生まれ変わりがあるということになると、救済を売り物にする教会にとって不利益だから、輪廻転生を聖書から削除した、と言いますが、私は個人的にはそこまで悪意があったのではなく、ただ、当時の神学者がその内容を理解できなかった、あるいは説明できないと考えたからではないかと思っています。どちらにしても、キリストを信じるというのが本心なら、とんでもないことではあります。

 いずれにしても、今日の死刑の是非の議論で顧みられる論理ではないと思いますが、そういう見方もあることは知っておいてもいいのではないかと思います。

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